証拠は誰のものか?

当事者主義。

 

裁判は弁護側と検察で争われるわけですが、無罪、有罪に結びつくような情報は、当事者主義で扱われている、という話が以下のページで紹介されています。

 

証拠は誰のものか

 

裁判は「推定無罪」利益原則が基本である、と通常は認識されているのではないでしょうか。少なくても私は根拠なくそう思っています。根拠なくそう思っているというのは、法の精神や日本の裁判を盲目的に信用しているところがあるからです。これは自分の今の生活がおおよそ裁判の当事者である必要がない状態である事と、性善説的に裁判を取り行う環境を信じていること、またある程度治安は守られ、自分たちは平和に生活している現状を保守しようとしていることに起因していると思われます。

 

感情を持った人間が、事実をただ列挙していく、というのはとても難しいことです。弁護側は無罪を主張する時に「怪しまれるような証拠」をあえて出すような事はしないでしょうし、検察は逆にあいまいさを表してしまう証拠は出したくないでしょう。

 

「結論ありき」で論理を組み立てるのはとても危険なことです。結論に都合のよい情報を集め、都合の悪い情報は語らず、あいまいなものは都合よく改変してしまう。論文であったり、製品開発であったり、世間話でさえもそういう誘惑にかられる話はあります。ページの内容を見ると、直感的には冤罪を生むような検察のやり方が悪に感じます。しかし「犯罪者を利することになる」という側面があるのも事実でしょう。検察が証拠は不十分ではあるけれど、複数の面から考えて犯人である可能性は高い、という判断が出来る時に、「推定無罪」を基本に考えることが出来るものだろうか。

 

現在の状況では裁判で有罪判決が出る前に、逮捕の段階でニュースは流れ本名は開示、その人の積み上げて生きた日常は破壊されます。なので裁判は「推定無罪」よりも「当事者主義」という言葉がより現実的な言葉に思えます。であれば「フェアな当事者主義」を目指すのが一つではないでしょうか。

 

弁護側、検察それぞれが得た情報は公開する。同じ土俵の上で裁判を行う。米では州によって「証拠」は全てデジタル化し共有する、という形になっているようです。情報がデジタル化されるとなれば「情報セキュリティ」「プライバシー」を配慮する必要が出てきます。「証拠」はどこにどのように管理され保管されることになるのか。共有の方法はどのようになされるのか。そこにはセンシティブな情報が多く含まれることになるでしょうし、関係者の情報も巻き込んでいくいくになります。

 

また、ネットワーク上の行動も「証拠」となる現在です。掲示板やブログ、メールやSNSなどプロバイダやビッグデータと言った場所の情報は「証拠」となるはずですが、それらはいったい誰のものなのか。弁護側と検察の間に「証拠」に関する利害関係者が複数出てくることになります。内部統制としての証跡管理が、裁判に必要なデータを持つ時には企業も大きな利害関係者となることもあるでしょう。

 

事件があった時に、証拠は誰のものか、という問いかけと環境づくりは、冤罪をなくすためでもあり、同時に犯罪者を利することのないようにしていく必要があります。